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 石巻へ

                        7月16日(土)17日(日)18日(月)

 石巻に救援活動に行った。私はボランティアという言葉は嫌いなので、この言葉を使用します。

 前々から、いつかは被災地には行かなければ、と思ってはいたが、物見遊山のような気持ちでは行きたくはなかったので、どうせなら、なんらからの支援活動を行いたいと思っていた。
 水曜日にあった講演を聞いて、被災地には「やはり行くべきときに行けるときに行くべきだ」と思い立ち、ネットでいろいろ調べたり、電話をかけまくって、前々日に決定。最終的には、前日の15日に「ボランティア保険」に加入して、市川や浦安の方々と現地に出発した。

 「ボランティア保険」は印鑑もいらなくて、サインだけで簡単に入ることができた。私は天災タイプ年間490円の安い方に。ワンランク上は720円。震災支援のために、松戸でこの保険に入った人は100人程いるそうだ。

 石巻には、私はおそらく初めて行ったことになるだろう。数年前に三陸海岸を旅行したときに気仙沼を車で通った時も、気仙沼から仙台に直接入った記憶がある。松島までは何度か行ったことはあるけど、石巻までは足を伸ばしたことはないと思う。石巻に行ってみて、石巻は仙台の衛星都市と言う訳ではなくて、大きな街であることを知った。帰ってから調べて見ると宮城県第二の街で、歴史的にも重要な港町であることを再認識した。
 日本人として初めて、支倉常長が日本人の力によって建造した南蛮船サン・ファン・バウティスタ号『伊達丸』に乗って、太平洋を渡った出発の港が石巻である。

 実際に被災地に行って、震災直後に比べれば、確かに瓦礫の撤去など、復興への兆しは見えるが、まだまだ、多くの支援が必要に思えた。物資の支援はもちろんのこと、人的なソフト面の支援がとくに求められているように思える。
 いまだに、復興への具体的な図面が決められていない状況で、住民の方々も、自分たちがどのように復興の道筋へスタートを切れば良いのか、見えて来ない不安が大きいように思えた。
 住民の声を十分に吸い上げ、住民の力にも依拠しながら、地域の実情にあった復興を願う。

 現地での活動のようすは、次の Read Moreをクリック

西船橋駅に7時に集合。


Uさんのプリウスに乗ります。
プリウスは走り方次第で、満タンで800km以上走るそうです。
本八幡で1人乗って、計5人の参加者。後部座席3人は少し窮屈でしたが、エネルギーの有効利用ではあります。


「はかるくん」を持参しました。西船橋で0.088
川口周辺での車内での測定ですが。三郷ではこの数字より少し上がりました。0.157でした。
加須0.060 館林0.053
少し渋滞も。


佐野で。0.088も。ここで参加者の自己紹介。9時25分から40分まで。
鹿沼0.053 那須0.430から0.253の間


郡山で。
須賀川では0.180 郡山では0.590の所も。 0.700 福島では0.200から0.501 蔵王0.100 仙台0.053 塩釜0.033


安達太良で食事しようとしたら混雑し過ぎで諦めて次のSAに。
ところが次の国見も駐車場から一杯。蔵王PA(13時30分)ではトイレしかなくて,結局石巻まで行くことになりました。


東北自動車道での最高値。


14時に名取川です。


仙台に入ります。


瓦礫が海側に見えます。


利府・塩釜出口。


気になった煙突。
何かの処理場?


災害派遣の証明書を見せます。


14時40分石巻に着きました。


みやぎ生協に併設されたうどん屋に入ることにしました。
やっと体を伸ばせました。


紅ばらというお店です。いわしうどんが名物だそうですが、津波で生産が再開出来ていないそうです。


この周辺には津波は来なかったそうです。


冷たい大ざるそば590円。 放射線0.055


店内で買い物を。
早すぎるけど石巻の名物が目に入って買ってしまいました。
ここで驚きの再会が。前に松戸の教組の初期をやってくれていた方と再会。車で10分程の山側に住んでいるそうだがたまたま買い物に来たとのこと。先日の平和委員会のバスツアーで石巻に戻って住んでいると聞いたばかりだった。また彼女もこの日のつい先程、松戸の私もよく知っているOさんと話したばかりだそうだ。他の方を待たせると悪いので5分はどの話をした。
帰宅後に平和委員会のニュースに8月に彼女が石巻のことを話しに松戸に来ると書かれていた。


15時45分に救援センターへ。


車を置いた所がもとの地区のあったところ。地震と津波で痛んだので取り壊したそうだ。


石巻の浸水箇所。


このセンターの座っている方の頭の上くらいまで水が来たそうだ。


女川原発の20km県内に石巻はしっかり入っているそうだ。






センターを車で出発し被災状況の説明を受けました。
日和山です。


鳥居がかろうじて建っています。


旧北上川を挟んで左手が水産加工工場群。右手が住宅街。
遠くに見える18mの高架の橋(日和大橋)を越えるような津波だったそうだ。


左手に見えるのが石巻市立病院4階建て。1階は完全に水没し、ヘリで避難したそうです。
立派な病院ですが、作られる時は、津波を心配してこの地での建設に反対の声もあったそうです。


角度を変えて。3月の津波の時は雪も降っていたそうですが、今は木々の緑が増えました。展望が少し緑で遮られます。


石巻市立病院を大きく撮りました。4階建てですが一般住宅の基準では6階建て以上にも見えます。


鹿島御児神社。
日和山は歴史上も戦国大名の城が築かれたりした史跡の残る山のようだが、じっくり見ることはできない。


日和山を車で下りて、被災地の巡視。


大きな瓦礫は撤去され、道路は車が走れるようになっていますが、まだまだ多くの瓦礫が残されています。
ごく最近、復旧したという、真新しい電柱が不釣り合いです。


ボンベがいろんなところにありました。
「がんぼうろう!石巻」の大看板が建てられています。






全焼した門脇小学校。地震のせい?と思ったりしたのですが,津波で工場から流されてきた重油や揮発性の油に引火して全焼したようです。後日ネットで調べると流されて来たり、校庭にあった車が校舎にぶつかり、その衝撃でガソリンに引火したようだ、という話も出ていました。




津波は校舎の1階部分に押し寄せたようです。
門脇小学校の後ろが日和山に連なる高台です。そこに経っている建物は、地震の被害はありますが、何事もなかったように佇んでいます。


元コンビニがあったであろう、駐車場に車を停めます。ここも、当時は瓦礫の山だったように思われます。っ割れ笑えの車以外に車が数台停まっていたり、道路を数は少ないですが、何台か走っています。被害のようすを見に来たり、花が置かれた所もありますので、関係者が供養に来ているのでしょうか。








この方面の奥が、高校生と祖母が9日ぶりに救助されたという所のようです。




この家はここに建てられたものではなく、周辺の人に聞いてもどこから流れて来たのか分からないのだそうです。






周辺を車で走ります。


丁度満潮の時期で、道路が水没し出しています。全体に数m沈降したようです。


道路に仮の応急処理がされていますが。


鉄筋の建物は残っているものがいくつかありますが。


沿岸部の工場です。波の向きが分かります。


無線のアンテナ?


倒された木々。
奥に見える携帯用のアンテナ。
復旧が最優先だったものの1つです。


瓦礫の山です。これが津波に襲われた海岸線に長々と積まれています。一件、瓦礫の堤防です。


瓦礫の山の先は、廃車された車両の山々。千台から1万台はあるように見えます。とても数えきれません。




津波がぎりぎりまで来たと言う日和大橋を渡って対岸に行きます。


ここは、主に水産加工場が多かったそうですが、住宅も少なくありません。


大きなタンクがゴロンと。


バックミラーでわかりづらいかも知れませんが、大きなタンクがそのまま転がっています。


ブルーシートがあるのは、またこの地に住み続けたいということでしょう。


市立湊中学校。奥に見えるのが市立湊第二小学校。


学校の生徒全員が避難しているようです。


ここまで水が来たようです。


みなと食堂とあります。避難者のための炊き出しの食堂でしょうか。


奥の緑が日和山。


しだいに、建物が残っている所になりました。
津波の勢いが弱められたのでしょうか。1階部分の損傷は激しいです。


派出所か、と思っていましたが、消防団の施設のようです。


遠くに石ノ森萬画館が見えて来ました。


愛知県警の応援部隊の車が停まっています。


旧北上川。


石ノ森萬画館です。


建物はなんとか無事のようです。


愛知県警の応援部隊が交通整理にあたっています。


建物は無事でも中はこのような状態のようです。


石巻の繁華街に入ります。


エッちゃんの像が。


シャッター街ですが、中には再開している店も。


千石線です。


17時20分救援センターに戻って明日の打ち合わせ。


石巻のマンホール。


18時20分登米市内の今日の宿に。


もと薬屋さんだったようです。旧家です。ご主人が、高齢のために施設に入所していて、救援センターの宿泊所に提供していただいているのです。


入口の玄関は右手に。
今日の町家のように間口は広くなくとも奥はかなりあります。


なんとすぐ数10mの近くには石ノ森章太郎の生家や石ノ森章太郎ふるさと記念館があります。
この地が石森町と来て知りました。登米ということは聞いていたのですが。


車で10分程戻ってスーパーで今日の夕食や明日の朝食の買い出しです。
石森町の店はほとんど閉まっているようです。


19時戻ります。石ノ森章太郎ふるさと記念館の駐車場に車を停めます。


明日は、7時には出るので明るい内に少し見学です。
安永寺です。


サイボーグ009のジョーです。


ふるさと記念館は、もう閉まっていますが、庭には入れます。
地震の影響が所々に。
なにしろ登米は、今回の地震で最大震度記録した栗原市の隣りの市なのですから。




いろんなところに石ノ森章太郎のキャラクターが。


窓越しに。夕方だからよく見えません。


食堂、売店は震災のために閉所中のようです。


フランソワーズ。003です。
奥に見えるのが石ノ森章太郎生家。


1階が地震で被害を受け、現在の閉鎖中です。
昔は商店も経営していたようです。


この角度からの写真を何度か見た記憶があります。

 石ノ森章太郎は、私にとっては石森章太郎の方がずうっとフィットしていて、私が10代後半のマンガ少年だった頃に、彼の「マンガ家入門」に相当感化されたものです。「続マンガ家入門」もありました。
彼のサイン入りの本は、女房がどっかにやっていますが、確実に持っています。
 彼が「ジュン」を書いていた頃が一番共感出来ます。その後。「仮面ライダー」なんかでかなりメジャーになって、うーんと首をかしげることが多くなりました。
 その点、手塚治虫さんはある意味で一貫していると思います。マンガ愛好家を大切にする手塚治虫さんとすぐ身近で話したことがありますが、ほんとに近所のおじさんという感じでした。
 とにかく石森章太郎さんは、例の「マンガ家入門」によって私はまんがを描き出した、ということもあるので、影響を受けた1人です。そういう私が20歳を過ぎてからほとんどまんがをほとんど読まなくなったとことが自分自身不思議でなりません。私は絵を重視してマンガを読むので、おそらく自分の琴線に触れないものは受け付けなくなったのでしょう。
 このような地方文化の中で育った彼があれだけエネルギッシュに作品を生み出して行ったことに興味を持ちます。当時の石森の町は、現在よりもっともっと人口も多かった街だったようですが。


建物全体は無事のようです。


石ノ森章太郎ふるさと記念館の向かいの角に仮面ライダーです。


これらのカラーコーンは、瓦の落下に気を付けるためのようです。


私の夕食。
この日は私たち千葉の5人や10人程の静岡からの方々、4人ほどの神奈川の方々が宿泊しました。


私の寝床。
21時には寝ました。


7月17日(日)


4時過ぎには目が覚めてしまって、朝の散歩です。
表の道を夜中も大きな車がよく通り、何度か目が覚めました。


敷地の奥に行ってみます。


立派な倉。


宿泊者の洗濯物がの干場の下に昔ながらの井戸が。
しっかり水が。このようにきちっと水が見える井戸は久し振りです。
水は少し濁っていますが。


懐かしい滑車。


玄関からずうっと奥まで50m以上はあるでしょう。


地震の被害でしょうか。


離れ。


裏の門。


裏の門から逆方向を撮りました。


1件置いた隣りの屋根瓦はかなり破損しています。


旅籠を思わせる造り。
このような建物がこの本吉街道沿いに何件か残っています。


伊勢岡神明社への入り口。


立派ななめこ壁の倉が2つも並んでいます。




1185年創建とのこと。
日和山の葛西氏の家臣石森氏が修営したそうだ。


石森氏の後には笠原氏が修営したそうだ。石ノ森章太郎の子ども頃の遊び場の一つ。


確かに?遊具もありました。


阿部静枝の歌碑。


拝殿。




高市再興記念の碑。高市は数百年の歴史があり飢饉のときに中絶したりしたそうです。一時期は身動きもとれない程程賑わったそうです。今も続いているのかな?と調べると30年程振りに石森高市として、10年程前から復活しているそうです。


狛犬 阿


狛犬 吽




登米のマンホール。


石森郵便局のエッちゃん。


正面奥が安永寺や石ノ森章太郎ふるさと記念館。


ロボタンが見えます。


石森小学校に寄ってみます。


石ノ森章太郎出身校の石森小学校の正門。




何かの碑が地震で落下していました。


グランドから全景。


右手の建物はトイレ。地域住民がグランドを活用しているのでしょう。




ここはいわゆる学童ですね。




池もあります。




もう一つの校門。


出身者の佐藤達という造形作家の「未来への道標」という作品。




朝早くからだと仕事がはかどるのでしょう、除草作業をしていました。


この倉は亀裂が大きいですね。


裏道を通って、また伊勢岡神明社に出ました。


この辺りが「佐武と市捕物控」の着想を得た小路だそうです。
左の柱に石森町役場とあります。


この建物が旧石森町役場のなのでしょうか。


ここが私たちが泊っているお宅の裏です。


この小路が「佐武と市捕物控」の着想を得た道でしょうか。


門柱は傾いていますが何か懐かしい雰囲気。


左が私たちの宿泊所の裏塀。右が旧石森町役場?


土塀が崩れていますが丁寧な造りです。


懐かしい雰囲気の建物。
左手の鉄砲火薬店の敷地に城内屋敷があったようです。


理容チバとあります。千葉という方がわりと住んでいるようです。




ここも歴史を感じる小路です。


本吉街道に戻りました。


安永寺に寄ります。
ここも石ノ森章太郎の子ども頃の遊び場の一つ。生家のすぐ裏手にある。
1630年に笠原氏が創建したとのこと。




地震の被害箇所を修復中のようだ。


附属の施設のようだが修復中。


無常響というシンボリックな造形作品があったようですが、倒壊したようです。


右奥に一部が残っています。これも佐藤達の作品です。






誰でも金を撞けますが、朝が早いので遠慮がちに。
まだ5時30分です。


本堂から。


本堂の周り近くの灯籠などが落下しています。


本堂。


忠魂の碑。書かれているのは町出身者の戦没者の名です。
かなりの人数です。




福島の位置に赤い点。曹洞宗のメッセージです。
「正見」と書かれたものには

正しい知識に基づき、冷静に行動すること
震災に苦しむ方がたの心を正しく見つめ、受け止めること
それが今、私たちに求められています

 原子力発電所の事故による風評被害が拡大しています。
 福島県から避難した子どもたちが「放射線がウツル」などといじめられたほか、避難した方に対する宿泊拒否、福島県ナンバーの車への給油拒否、タクシーの乗車拒否なんどの被害が相次いで報道されています。
 しかし、被ばくに関する科学的、客観的な事実をしっかりと理解し、冷静に受け止めるならば、このようないじめや差別はいわれのない誤りと誰しもが気付くはずです。また、差別や偏見を受ける方がたの苦しみを正しく感じ、受け止めたとき、私たちの行動は自ずと変化するものでしょう。

 私たちの温かい「ことば」や「行い」が被災された方がたを支えます。


とある。最後の4行には「お釈迦様の教え」に関連させた話。

基本的によいメッセージと思う。とくに「被ばくに関する科学的、客観的な事実をしっかり理解し、云々」は共感出来る。しかし、風評被害を強調しているようにも読める。まず、心の持ちよう云々よりも「科学的、客観的な事実をしっかり理解」することが求められるのではないだろうか。




これも、寺の付属施設。ここは集りなどに使われているようです。


参道を戻ります。


石ノ森章太郎生家に再び。


昔は小川であったろう暗渠の蓋の上を歩くと生家のようすが見えます。
池もありました。


地震の被害も。これはポンプ室のようですが。




石ノ森章太郎ふるさと記念館の入口の母屋はなめこ壁のようです。
6時前に宿舎に戻りました。ほぼ1時間30分の朝の散策でした。
みなさんほとんど起きていました。


私の朝食。6時です。


身支度をして、あらためて泊めてもらったお宅を見学します。


戸袋の絵や襖の絵がなかなのものです。






7時に出発します。1週間ほど活動して、この日に帰宅する神奈川の方々が後片付けや掃除をしてくれるそうです。感謝。


石巻に向かいます。
ようやく救援活動のスタートです。


赤十字病院。立派な病院です。


昨日寄ったみやぎ生協が見えます。


早々と8時前に救援センターへ。


一日でハエ取り紙がこのように。


救援センター2階の全国からの支援物資。


階段にはヘルメットや長靴が。


近くの民家にあったオートバイ。思い入れがあるのでしょうか。


側溝の泥出し隊は、9時過ぎからさっそく作業開始です。
曽於港の泥出しは、ハエの発生や臭いを防ぐためで必要ですが行政は手が回らないのだそうです。


側溝に溜った泥。




私たちは支援物資をトラックに積み込んで、救援物資の無料配布です。
ヨークベニマルの大きな駐車場ですが「ボランティア臨時駐車場」という看板が。


この大型スーパーは津波による浸水のために閉店中なのです。
胸程の高さに浸水したようです。


中は空っぽです。


「支援物資を置くのにずいぶん都合の良い棚だなあ」と思ったら大きな看板でした。津波で外れて、ここに置いてあるようです。


このようなポータブルトイレや洗濯機も支援物資にありました。


10時から開始予定でしたが、並んでいる方々と少し話したら、向かい側の道路が大きく陥没し数十台の車が流されたそうです。その後穴を緊急に塞いで道路を開通させたそうですが、地元の人の間では「あの道路の下には何人かの遺体が埋まったままなのではないか」とうわさされているそうです。
その陥没した穴の一部が残っています。


右手に川があり、その堤防も急いで修復したようです。川から溢れて堤防が決壊したのではなくて、右手の海側から津波が川の堤防を決壊させて、川に水が流れ込んだそうです。そのときに堤防が決壊したのだそうです。






10時過ぎから、いわゆる「無料バザー」の開始です。


300人程が集ったでしょうか。
さまざまな年代の方が集りました。


店のひさしが助かりましたが、しだいにお日さまが昇って来て日射しがきつい。






車で来ている方もいて、高齢者の方の荷物を車まで運びました。「ずいぶん新しい車ですね。」と聞くと車を2台流されて、中古だけど必要のなので買った、とのことでした。地方都市では車は必要な交通手段のようです。


衣料品も意外とさばけました。
ティッシュ類がはやばやとなくなります。
人気が高いのはやはり新鮮な野菜類のようです。




洗濯機は3人の方で抽選になりました。
この地域の方は2階に住んでいる方が多く、1階は大工さんがなかなか来てくれなくて住める状態ではないそうです。洗濯機類は流されてしまったそうです。
11時過ぎには終了です。


臨時駐車場にピースボートのバスが停まっていました。


11時30分前には片付けも終了。


途中のガソリンスタンドに停められた車。走るようになるのでしょうか。


救援センター前の大型パチンコ店の駐車場に停めました。


このパチンコ店は開いているのですが、もちろん営業はしていません。
清掃は済んだようですが、臭いが残っているので、扇風機を回しっぱなしでした。
機械類は全滅です。




救援サンターに報告後に近くのココスに。
混んでいて少し待ちました。
このココスも1m程浸水し、1ヶ月程前に再開したとのことです。


私の昼食。
食べ出そうとしたら、なんと次男に声をかけられました。3人で今日来たそうです。
活動は明日までですが、私たちが泊った登米に今日は泊るそうです。


救援センターに戻ります。
このショーウィンドーの真ん中あたりまで水が来たようです。


みなさん2階で休憩中。


血圧計がありました。


午後の救援活動を再開します。
昨日、被害状況を見たところより西側の被災地です。
このもと焼肉店の向かいのお寺では、修繕中ながら、葬儀を行っていました。




大型の重機もひっくり返っていました。






なかなか車も停められ、人も集れそうな所が見つからず、ようやく15時前に見つかりました。
この船は、流されて来たもの。ここは海から1km程の所です。


ここは小規模に。
集ったのは100人程でしょう。
やはり2階に住んで居る方が大半です。
避難所なら、一定し支援物資が届くのですが、居住場所にいるかたには支援物資が届いていないのです。




高校1年と言う男の子が1人で支援物資を受け取りに来ました。やはり2階で生活しているそうです。


70歳と言う女性の荷物を自宅がすぐ近くということで、自宅まで持って行ってあげました。
駐車場から100m位のお宅でした。
やはり2階に住んでいて、1階は掃除をして、住めるようにしようとしているそうです。


「先日ボランティアが来て、床の泥出しをしてくれてたいへん助かった」と言っていました。


理容師さんで、免許を取って30年、今は1人でやっているそうです。
廃業も考えたそうですが、地域の方々から頼まれ、なんとか要具を揃えて自分で直したりして再開したそうです。
まだ穴が空いた所もあります。


いろいろ聞きたいこともたくさんありますが、無料バザーで活動中の方々のことも気になって5分程の話しかできませんでした。
 床屋の看板は「25万したという大きなものが流されて来たトラックに壊され、小さな5万円のものした」と話してくれました。右手の床板は自分で剥がして切ったそうです。すごい。
お元気でご活躍下さい。


会場の駐車場の近くに来たら背後から、感謝の言葉が。誰かな?と思ったら玄関先にいらした方からでした。
このお宅は一見、修復もかなり進んでいて、庭の花々もきれいに植えられていました。
しかし、「津波で正面のガラス戸はぜんぶ割れたんですよ」と話してくれました。
このように被災した方々は、少し落ち着いた生活が可能になって来た方もいて、被災したことを語りたい方も多いのではないかな?と思いました。


バザーは1時間もしないで終え、今日の宿泊所の仙台市内の南部にあるユースホステルに向かいました。
高速を使って18時に着きました。昨日の登米の宿泊所よりも遠いです。泊る所が近くにないのです。


道中庵という素敵なユースです。






一泊4750円。


外国人も宿泊していました。


大湯温泉黒森YHは、高校生から25歳までのボランティアは宿泊無料だそうです。


私はベットの部屋。


談話室。


この樽を使ったロッジは何かな?瞑想にでもふけるのかな?と思ったら、翌日に帰り際に聞くと、昔実際に1人用として泊ったそうです。6つ程あったそうですが、さすがに狭いので、評判が良くなく撤去したそうです。11つだけ残したものだそうです。




ごはん居酒屋「すずめ」という所で夕食です。


生ビール。このお通し399円は高い。後で分かったけど、そんなにするならいらなかったな。


隣りの席の女の子がしょっちゅう我々を覗きます。良心は食べることに熱中しているようです。


最後には座布団を持ち出して。


さつまあげ。


私の頼んだ牛タン定食。牛タンは量は多かったけど固くてあまりおいしくなかった。


私だけ、200m程歩いた先の大型スーパーで明日の朝食を買いました。



21時過ぎには寝ました。


7月18日(月)


やはり5時前には起床。暑くて何度か目が覚めました。省エネ設定の28℃では暑くて途中26℃に。


早々と5時に朝食。


まず、道中庵の中を見学します。
2階から。








昔の道中庵だそうです。
後でオーナーに聞くとユースとして始めたのは30年以上前。20年程前に大改装したそうです。


オルゴールの屋台ですか。アンティークですね。


朝食は7時30分からなのでは味わえません。


立派な倉がありました。


ネジバナ。




住宅街の中に道中庵はあります。




6時15分の戻ったらオーナーがいました。
地震の時のことを聞きました。
停電が1週間程あり、その間に掃除を行い、電気が回復したと同時に再開出来たそうです。
柱が揺れを吸収し、大きな被害はなかったそうですが、塗り壁のため、床に埃が大量に降って掃除が大変だったそうです。
壁が剥がれた所を2カ所程教えてもらいました。


部屋に戻って同室のIさんに報告したら私の寝ていた側の壁のヒビを指摘されました。
言われないと気付かないですね。


談話室の上の壁。


玄関の壁。
6時30分に宿を出ました。


途中のコンビニで。みなさんはここで朝食を買いました。


8時10分に救援センターに。
8時30分から指示を受けます。
いろんな所からやってきた年代も経験もまちまちの方々のみなさんに仕事を手配するのは大変なことです。
担当者は3ヶ月以上から2週間交替までさまざまですが、泊る場所も毎日のように異なるそうです。


今日は側溝の泥出し作業です。
長靴やマスクを用意しまして来ましたが。


正直私は1時間もしないでへたばりました。
暑さはもちろんのこと、上半身の体力がなくなったこを実感しました。
1枚ムキになって側溝の蓋を外しましたが。


私は報道写真の仕事?に徹しました。


申し訳ない気持ちで救援センターに戻って、キュウリで一息。


私たちといっしょにやった愛知の2人、京都の女性、福岡からの青年は午後もこの現場で活動します。
昼食もこの現場で食べるとのこと。すごい!!
12時10分に私たちは救援センターをあとにしました。


「救援活動に行って、自分が救援されては情けないので、無理をしないのが大切」と自己合理化して、昼食も兼ねて風呂に。
上品の湯という道の駅に併設された風呂に。


他の団体のボランティアもいっぱい湯に入りに来ていました。
湯船は満杯でした。




私の昼のサーモン丼。1000円。


足湯もありました。どろっとした湯です。


道の駅側のレストラン。


一応土産を買いました。


14時30分に出発です。


16時20分に国見SA。


福島のモモを買いました。


草むら側で。


福島辺りで。


上河内SAで夕食。19時。


冷しうどん。

渋滞もほとんどなく、市川に21時30分。
21時45分頃解散した西船橋で電車が止まっていて、どっと疲れましたが10分程で動き出しました。
自宅には22時40分に着きました。
2日後に疲れがとれた感じです。





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