放射線被曝量
4月9日(土)
本屋で週刊新潮を立ち読みした。
昨日の電車の中吊り広告で見た、見出しが気になって本屋に立ち寄ってみたのだ。
「「冷戦時代」の大気圏核実験競争での被曝量の方が福島原発での被曝量より圧倒的に多い」という話である。

翌日の4月10日に電車で撮ったもの。
どういう「目論み」で、今の時期このような記事を週刊新潮は掲載したのであろうか。
確かに、記事に書かれた、核競争の時代の放射線量は多かったかも知れない。だから、こそ日本を始めとして、多くの市民が核兵器反対の大運動を押し進めたのではないだろうか。
「核競争の時代に比べて、福島原発の放射線量は大したことないから、大丈夫」というニュアンスが伝わって来る。逆に、「当時の核兵器反対の大運動のように、反原発の大運動を起こして、原発問題を収束させよう」というニュアンスは全然伝わって来ない。パニックを起こさない、一つの記事としてとらえるべきなのかもしれないが、伊天までの原子力政策の本質を告発する記事があまりにも少ないように私には思える。
4月9日(土)
本屋で週刊新潮を立ち読みした。
昨日の電車の中吊り広告で見た、見出しが気になって本屋に立ち寄ってみたのだ。
「「冷戦時代」の大気圏核実験競争での被曝量の方が福島原発での被曝量より圧倒的に多い」という話である。

翌日の4月10日に電車で撮ったもの。
どういう「目論み」で、今の時期このような記事を週刊新潮は掲載したのであろうか。
確かに、記事に書かれた、核競争の時代の放射線量は多かったかも知れない。だから、こそ日本を始めとして、多くの市民が核兵器反対の大運動を押し進めたのではないだろうか。
「核競争の時代に比べて、福島原発の放射線量は大したことないから、大丈夫」というニュアンスが伝わって来る。逆に、「当時の核兵器反対の大運動のように、反原発の大運動を起こして、原発問題を収束させよう」というニュアンスは全然伝わって来ない。パニックを起こさない、一つの記事としてとらえるべきなのかもしれないが、伊天までの原子力政策の本質を告発する記事があまりにも少ないように私には思える。
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