3.11 14時26分
松戸からの報告
14時26分は、卒業式が終わって、私は午後は時間に余裕があったので、理科室で、若手のGさんに電流と磁界の実験方法や、授業の進め方を教示していて、だいたい終えて、ビデオでの演示方法を準備してあげていた頃であった。
理科室で私は教卓でビデオ設置を、Gさんは椅子に座ってそれを見ていた。すると、Gさんが「地震?」というので、私は立って作業していたので気付かず、Gさんの所に行って座ってみるとゆれに気付いた。それが初期微動だったわけで、かなり長いことが分かる。それから、主要動がゆっくりと始まり、その揺れはしだいに大きくなって、Gさんは、ストーブの火を消した。それでも、ゆれはおさまらず、しだいに大きくなるようなので「避難しなきゃ」とGさんが言い出したが、私は時間的にそろそろおさまるのでは?とようすを見ていた。少しおさまったように、思えたが再び揺れが大きくなり出したので、理科室は1階で、すぐ外に出られたので、外に飛び出すことにした。放送でも避難の呼びかけがされた。後で考えたのだが、この行為は危険な行動だったかも知れない。まず、揺れがおさまるまで、室内で待機が原則だろう。しかし、言い訳かもしれないけど、少しおさまったのと、外にはすぐ出られる場所だったから外に避難したのである。
外に出ても車や木々や、地面がしばらく揺れていた。
揺れがおさまった頃に理科室に戻ったが、他の教職員が「まだゆれている」と飛び出して来た。部活動で外で活動している生徒もいたが、体育館での活動して生徒もいたので、外に避難させに行ったようだ。
生徒はグランド中央に集めさせた。
理科室に戻ると、他の出口から逃げたGさんと状況を見ると、理科室の棚の引き戸がそれぞれ10cmほど開いていた。棚の上に置いていたバット一組が床に落ちていただけであった。
2人で、この地震を分析した。初期微動が長かったので、かなり遠くが震源と推定され、おそらく先日あった三陸沖の地震に近い所ではないか、と考えた。TVを点ける。やはり震源は、三陸沖のようだ。
Gさんは生徒のようすを見に行って、プールの水が溢れて周りが水浸し、と言っていたので、そのようすを見に行った。確かに、水が溢れグランド側に滝のように水が流れていた。
職員室に行って、カメラを撮りに戻った。
職員室では机の引き出しが空いて、書類類が散乱していた。自分の机は大したことはなかったので、すぐそのようすを写真に撮って、プールへ。この間、何度か揺れがあった。
プールに行って写真を撮った。まだ、生徒達には緊迫感がなく、笑い声も聞こえて来た。
校舎に戻り、まず理科室のようすをもう一度確認。準備室に入ると、より棚から物が落ちていた。生徒の活動する理科室は物がほとんど落ちていなくて、準備室では物が落ちたりしていたのは、いいかな。気になる薬品類を確認したが、問題はなかった。もう一つの理科室も確認。生徒の活動する教室は扉のとが開いているのみ。準備室は頭骨標本が床に落ちていただけであった。ウシの頭骨標本は、もとから不安定であったのだが。頭骨標本を落ちづらい所に移動。薬品も確認。問題なし。校舎内の生徒の教室も回ってみた。事務室前に落ちてガラスの割れた時計が置かれていた。各教室は基本的には問題なし。吹奏楽で練習に使っていた譜面台が一部倒れていたのみであった。
(後日、美術室の石膏像が倒れてほとんど像が破損したということを聞いた。)
再び、1階に。余震が続き、プールに行って見ると、大きく揺れて波のように水が溢れるようすを観察出来た。
理科室のTVを見ると、津波の映像が。「これはやばい」と実感する。
何度も余震があったので、しばらく様子を見て、生徒は結局16時前に帰宅させることになった。生徒達も帰宅の頃には、1時間程待機の時間に何度も余震を経験したので、多少緊迫感を持ったようだ。
校舎内を片付けたり、戸締まりをして退勤した。
自宅に戻ると、洗濯機から水が溢れていたり、棚から書類や本類が落ちていた。食器が一部割れていた。女房はずっと家の机の下にいたそうだ。濡れた床を拭いたり、片付けたりで、1時間以上かかることに。
それからは、ほとんどTVを見ることになった。
松戸は震度5弱という報道であったが、私の実感は、それほどでもないのでは?とも思った。私は十勝沖地震を経験しているので、その時の方がよほど揺れが大きかったように思える。当時の揺れではTVが棚から落ちたり、本が殆ど床に落ちたのだから。
関東地方にも被害が出たし、東北地方の津波の被害の状況がしだいに明らかになって来て、胸が痛んだ。
松戸からの報告
14時26分は、卒業式が終わって、私は午後は時間に余裕があったので、理科室で、若手のGさんに電流と磁界の実験方法や、授業の進め方を教示していて、だいたい終えて、ビデオでの演示方法を準備してあげていた頃であった。
理科室で私は教卓でビデオ設置を、Gさんは椅子に座ってそれを見ていた。すると、Gさんが「地震?」というので、私は立って作業していたので気付かず、Gさんの所に行って座ってみるとゆれに気付いた。それが初期微動だったわけで、かなり長いことが分かる。それから、主要動がゆっくりと始まり、その揺れはしだいに大きくなって、Gさんは、ストーブの火を消した。それでも、ゆれはおさまらず、しだいに大きくなるようなので「避難しなきゃ」とGさんが言い出したが、私は時間的にそろそろおさまるのでは?とようすを見ていた。少しおさまったように、思えたが再び揺れが大きくなり出したので、理科室は1階で、すぐ外に出られたので、外に飛び出すことにした。放送でも避難の呼びかけがされた。後で考えたのだが、この行為は危険な行動だったかも知れない。まず、揺れがおさまるまで、室内で待機が原則だろう。しかし、言い訳かもしれないけど、少しおさまったのと、外にはすぐ出られる場所だったから外に避難したのである。
外に出ても車や木々や、地面がしばらく揺れていた。
揺れがおさまった頃に理科室に戻ったが、他の教職員が「まだゆれている」と飛び出して来た。部活動で外で活動している生徒もいたが、体育館での活動して生徒もいたので、外に避難させに行ったようだ。
生徒はグランド中央に集めさせた。
理科室に戻ると、他の出口から逃げたGさんと状況を見ると、理科室の棚の引き戸がそれぞれ10cmほど開いていた。棚の上に置いていたバット一組が床に落ちていただけであった。
2人で、この地震を分析した。初期微動が長かったので、かなり遠くが震源と推定され、おそらく先日あった三陸沖の地震に近い所ではないか、と考えた。TVを点ける。やはり震源は、三陸沖のようだ。
Gさんは生徒のようすを見に行って、プールの水が溢れて周りが水浸し、と言っていたので、そのようすを見に行った。確かに、水が溢れグランド側に滝のように水が流れていた。
職員室に行って、カメラを撮りに戻った。
職員室では机の引き出しが空いて、書類類が散乱していた。自分の机は大したことはなかったので、すぐそのようすを写真に撮って、プールへ。この間、何度か揺れがあった。
プールに行って写真を撮った。まだ、生徒達には緊迫感がなく、笑い声も聞こえて来た。
校舎に戻り、まず理科室のようすをもう一度確認。準備室に入ると、より棚から物が落ちていた。生徒の活動する理科室は物がほとんど落ちていなくて、準備室では物が落ちたりしていたのは、いいかな。気になる薬品類を確認したが、問題はなかった。もう一つの理科室も確認。生徒の活動する教室は扉のとが開いているのみ。準備室は頭骨標本が床に落ちていただけであった。ウシの頭骨標本は、もとから不安定であったのだが。頭骨標本を落ちづらい所に移動。薬品も確認。問題なし。校舎内の生徒の教室も回ってみた。事務室前に落ちてガラスの割れた時計が置かれていた。各教室は基本的には問題なし。吹奏楽で練習に使っていた譜面台が一部倒れていたのみであった。
(後日、美術室の石膏像が倒れてほとんど像が破損したということを聞いた。)
再び、1階に。余震が続き、プールに行って見ると、大きく揺れて波のように水が溢れるようすを観察出来た。
理科室のTVを見ると、津波の映像が。「これはやばい」と実感する。
何度も余震があったので、しばらく様子を見て、生徒は結局16時前に帰宅させることになった。生徒達も帰宅の頃には、1時間程待機の時間に何度も余震を経験したので、多少緊迫感を持ったようだ。
校舎内を片付けたり、戸締まりをして退勤した。
自宅に戻ると、洗濯機から水が溢れていたり、棚から書類や本類が落ちていた。食器が一部割れていた。女房はずっと家の机の下にいたそうだ。濡れた床を拭いたり、片付けたりで、1時間以上かかることに。
それからは、ほとんどTVを見ることになった。
松戸は震度5弱という報道であったが、私の実感は、それほどでもないのでは?とも思った。私は十勝沖地震を経験しているので、その時の方がよほど揺れが大きかったように思える。当時の揺れではTVが棚から落ちたり、本が殆ど床に落ちたのだから。
関東地方にも被害が出たし、東北地方の津波の被害の状況がしだいに明らかになって来て、胸が痛んだ。
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