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松戸歴教恊
旧水戸街道を歩こう
                 
                     3月25日(水)

 松戸宿周辺の旧水戸街道を探訪する企画である。昨年の春には、やはり松戸歴教恊主催で、高城氏の居城であった小金城(北小金駅周辺)を探訪する例会に参加したが、今年も参加してみた。松戸周辺を探訪する催しには随分前から、何度か参加したことがあるし、個人的にも歩いたりしたことがあるが「今回はまた違った角度で松戸周辺を見られるかな?」と思って参加した。
 しかし、昼から雨が降り出した。「小雨決行」とはあるので、行ってみることにした。

 13時に松戸駅西口集合。
 予定コース
 松戸駅西口……金町松戸関所跡……坂川……松竜寺……松戸神社……春雨橋……宝光院……善照寺……西蓮寺……平潟

 雨のためこのコースを変更。
 駅を西に5分程歩いた松戸市民劇場のロビーで、まず最初にレクチャーしてから、雨のようすを見ながら出発することになった。




松戸駅西口方面。平日で雨のためいつもより人が少ない。


西口広場。少し前にまでここにからくり時計があったが、老朽化?のため撤去されている。正面に松戸市民劇場。


市民劇場のロビーでレクチャー。


最近まであったある地方の浮橋(資料不明。相生市に2002年まであった皆勤橋ではないようだ。)。江戸川に、このような橋が江戸時代、何度か将軍の鹿狩りの度に設置されていたという参考のために。


旧水戸街道を歩くと旧道沿いに寺社が続く。市民劇場からすぐにある西蓮寺。ここから3つ寺が続く。それぞれ旧水戸街道沿いは、ビル等が立ち並び、参道は狭い。


善照寺。


宝光院。


宝光院は真言宗の寺だが、神仏分離の前の名残として菅原道真に縁の深い牛石像と梅がある。
松戸神社別当(両方を管理したようだ。このことから菅原道真との縁が出来たようなのだ)。大勝院(松戸市大谷口にある高城氏が建てた寺)末寺である。


参加者が首の無い石像多数が供養されているのに気付いて、呼び止められた。
雨が上がり出して、たまたま、玄関先に出てこられた住職の奥さんと思われる方にこの像のいわれを聞いてみた。
これらの像は、明治の頃、住職が四国八十八ヶ所を参った時に、近くの住民も同じようにお参り出来るようにと、松戸東口の斜面に、八十八体の石像を設置し、お参りのコースもあったそうだ。現在はヨーカドーやマンションで、その頃のようすは跡形もない斜面である。当時、コースの近くに金比羅様も祭られていて、その神社自体は、ヨーカドーのビルの階段の一角に残っている。ヨーカドーが建てられた後も10年程前までこれらの像は、斜面に残されていたそうだが、続々とマンションが建てられ工事関係者に打ち捨てられたりしていたものを今の住職が持ち帰り、供養しているそうだ。石自体が柔らかい石で、修復するのも難しくここに供養しているのだそうだ。首だけが意図的に欠いたのではんく、たまたま首の部分が弱いので欠けただけだそうだ。首が欠けたのは、工事関係者が乱暴に扱ったり、競輪帰りの人が投げたり、近所の子ども達が蝋石代わりに取って行って遊んだりしたためだそうだ。
 別の一角には首の残った石像が祀られていた。八十八体に、後で追加された像を加えて、91体の像があったうちの七十八?体(数えれば分かるのだが、私自身も数えなかった)が持ち帰られているとのこと。未発見の数体は、より破損が激しかったのだろう。今、寺の向かい側の一角で旧映画館(輝竜会館と言った)の場所にマンション(15階建て)が建設中で、落ち着いたら、石像を作り直し、境内に八十八の像を展示したいと考えているそうだ。
 寺にある古くからのものは?と聞くと、千葉周作の父親の墓があるそうで案内していただいた。


意外にしっかりした墓石であった。岩手出身だが、松戸で馬医者をしていて、浦山寿定という名で刻まれてあった。


浦山寿定の嫁の実家の墓。




こちらは首のそろった十数体の石像。


牛の切り絵が。


本堂全景。


江戸川土手の方面に抜ける。


カラシナがたくさん黄色い花を咲かせていた。


堤防側から松戸神社方面。10数年程前は、歩ける道はあったが、この堤防沿いの道路と、神社沿いの神社はこのように繋がっていなかった。


対岸が金町。おそらくこの方面に鹿狩りのさいに船橋がかけられていて、対岸の当たりに金町松戸関所が設けられていたようだ。


御領傍示杭があった辺り。


御領傍示杭跡の碑。




道路を隔てた向いに昔ながらの防火用水漕が。


道路が曲がった一角が角町。




松戸の昔の写真を飾った家。松戸の昔の本の宣伝も兼ねているようだ。


その家屋に貼ってあった補充兵であったことの証明書。


すぐ脇に明治の頃に造られた煉瓦作りの橋。通称レンガ橋。1904年造られた樋門(排水灌漑用の水路)で千葉県内に現存する煉瓦造りのものでは最古だそうだ。




坂川に繋がっている。






ボケの花。


伊勢丹方面に歩く。


途中にある慈眼寺跡。本堂等は焼けたそうだ。1879年頃まではあったらしい。


少しだけお堂が残っている。


松龍寺の参道。


松龍寺。


由来の書かれた石柱。
由来によると、浄土宗東漸寺(松戸根木内)末寺の松龍寺は、1615年頃創建。1650年当地に移転。当時広い境内を持ち、小金牧鹿狩では将軍の休息所になったそうだ。


このように溶岩を使った土台が、松戸市内のいくつかの神社仏閣に使われている。


境内から参道を写す。




門に飾られた葵の御紋は、将軍家に関わりのあることを示す。


この山門は江戸時代(1750年頃)からのものとのこと。松戸では唯一の江戸時代からの建物。




モクレンが咲いていた。


坂川に下りる階段。親水のためのものだが、まだまだ坂川は美しくない。


松戸神社。古くは御嶽権現と言った。伊勢神宮の式年遷宮の募金呼びかけの大看板があった。


お百度参りの百度石。


松戸神社の周りもマンション林立。


痛々しいイチョウの木に願掛けの絵馬がたくさん飾られていた。合格祈願のものが多かった。


少しは理科的な話題。数年前に科教協全国大会が新潟で開催された時に糸魚川に寄った時にヒスイ探しをしたことを思い出した。


花冷えで、境内のサクラもわずかに開花するのみ。

15時30分に境内で解散しました。

 松戸宿の頃人口は2000人ということだが、現在の松戸の市域で考えると、小金宿も含まれるし、いくつかの村も含まれるので人口は4000人ほどいたのではないだろうか。今の人口はその100倍以上の48万人だが、当時の江戸時代の日本全体の人口(3000万人といわれている)から考えると4000人の町は、当時としても、わりと大きな方だったのかもしれない。今回は、小雨のため全て見て回ることは出来なかったが、資料をいくつかいただいたので、また自転車ででも回ってみるつもりである。
 改めて認識したことは、松戸に本陣、脇本陣があったこと。金町松戸関所は江戸幕府にとっても重要な関所だったこと等である。江戸時代の金町松戸関所の位置は、今は堤防になっていて、その頃の片鱗はまったく残っていない。
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2009.03.25 Wed l 活動報告 l COM(0) TB(0) l top ▲